中野区の歴史2

中世以降の中野区に歴史について紹介します。

■近世

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は90年にわたって関東を支配した後北条氏を滅ぼし、
その後を徳川家康に託します。家康は江戸城に本拠をおき、翌年には検地を行い支配体制を整備していきました。

慶長8年(1603年)江戸幕府が開かれるにおよんで、村々は整備され、
中野郷は中野・本郷・本郷新田・雑色・江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮各村に分けられました。
各村には名主が任命され、中野村名主堀江氏は同時に中野・杉並の総代名主となりました。
これらの村はいずれも幕府の直轄領と旗本・後家人領となり、
幕府を直接支える役割をもった地域としての性格をもつようになりました。

また、江戸城建設のための石灰を青梅から輸送するため青梅街道が開かれ、中野宿が置かれます。
江戸中期以降は石灰輸送の役割は終え、多摩地域からの物資の集荷地として人々の往来も多く、
江戸近郊農村として重要な位置を占めるほど発展しました。

元禄年間に、五代将軍徳川綱吉は「生類憐れみの令」をだし、
江戸の野犬を収容するためのお囲いを、中野につくりました。

今の区役所を中心に28万坪もの広大なもので8万頭以上の犬が収容されたとつたえられています。
綱吉の死後、廃止されますが8代将軍徳川吉宗によってその一部に桃が植えられ「桃園」がつくられました。
これはわが国における公園のさきがけといえるもので、当初は将軍・大名の休息所でしたが、
江戸後期には庶民にも開放され花見スタイルの源にもなりました。

幕末になると、中野地域は物資の集荷地という特性を生かして、
それらの物資を原料とした製粉業・味噌・醤油など醸造業が盛んになりました。
このことは、製粉用の淀橋水車が、幕府の火薬製造に急遽転用されたことからもうかがわれます。

これらの産業の勃興は、幕府倒壊後もこの地域を支えていくことになります。

■現代

明治22年(1889年)には町村制が施行され、中野・本郷・本郷新田・雑色の4か村が中野村に、
江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮各村が野方村になりました。
この年には新宿・立川間に甲武鉄道(今のJR中央線)が開通して中野駅ができました。
これによって軍施設や公的施設が沿線につくられ、いままでの青梅街道沿いとは別な新たな町が形成されるようになりました。
このことにより明治30年(1897年)に中野村は中野町になりました。
交通機関の整備は宅地化を促進し、人口も増加して大正時代には、東京に隣接した高級住宅地としての性格もでてきました。
井上円了が江古田和田山の地に哲学堂を建てたのもこの時代です。

大正12年(1923年)関東大震災が起こり、その結果、東京の街は災害対策のため区画整理が開始され、郊外に向けて大規模な人口移動が開始されました。
中野も野方地域に急激な宅地化がはじまり、翌年野方村は野方町に変わりました。
昭和2年(1927年)に西武新宿線が開通して野方地域の交通網はほぼ現在のようになりました。

昭和7年(1932年)には東京市の市域拡張にともない、中野町と野方町は合併し中野区が誕生しました。

この頃、宅地化の進行にそなえるため、中野では各地で区画整理組合をつくり道路の拡幅や河川の改修を進めたことが、区内にいくつかのこされている整地碑によって知ることができます。

その後も宅地化は進み昭和13年(1938年)段階には、農業地域は江古田・鷺の宮周辺だけといったように減少していきます。
これに対して商業・工業地域は増加して、この頃、商店約4000件・工場694件という状況になりました。
このような、農業地域の減少にかかわらず、野方町を中心に練馬大根の沢庵漬け生産が明治以降つづけられており、軍への出荷などもあり、この地域の代表的な生産物として知られていいました。

太平洋戦争がはじまり、中野からも多くの兵士が戦場に向かいました。
昭和19年(1944年)から米軍の空襲がはじまり、住宅密集地域の家屋は強制的に破壊されたり、小学生は長野県・福島県に疎開し、中学生以上は軍事工場で働くといった状態になりました。
食糧も不足して人々は可能な限りの土地を耕し窮乏生活を強いられました。

戦後の復興はめざましく、人口30万人を擁する、都心に隣接したベッドタウンとして、戦前以上の発展をとげ現在にいたっています。