原始~中世までの中野区に歴史について紹介します。
この時代は富士山をはじめとした火山が活発に活動していた時代です。
噴火によって火山灰が降下して関東ローム層が形成され、中野を含めた武蔵野台地の基盤の層となりました。
この頃の中野は、最終氷河期にあたり、今より気温が5~6度低く、
カラマツ、チョウセンゴヨウ、など針葉樹林のうっそうとした森でした。
これは区内江古田で発見された「江古田植物化石層」から出土した植物化石からあきらかになったものです。
平和の森公園北遺跡からこの頃のナイフ形石器が出土しています。
約2200~11000年前には、気候も温暖となり、森も紅葉樹林と変わりました。
これによって、クルミ、ドングリなど植物性の食糧も豊富になり、人々の生活は豊かになりました。
この時代には土器が発明され、華麗な文様の縄文土器が盛んに作られました。
区内でも北江古田遺跡から漆塗りの耳飾や器の破片、編物・タガがかけられた土器などが出土しており、
この頃の生活が想像以上に豊かであったことがあきらかにされています。
約1650~2200年前になると朝鮮半島から稲作が伝わり、
それまでの狩猟・採集生活ばかりでなく安定した農耕生活へと移り変わりました。
これによって集落は大きくなり、富裕の差も生じるようになり、集落の統括者である首長も成長してきました。
新井三丁目遺跡では首長の墓である方形周溝墓も発見されています。
古墳時代(約1650~1300年前)弥生時代に出現した首長は、いくつかのムラを統括して豪族へと成長しました。
かれらは小山のような大きな墓、つまり古墳を造りその力を誇示しましたが、
4~5世紀初頭には近畿地方で成長した大豪族、つまり大王に服属していきました。
区内では、遠藤山遺跡で6世紀前半を中心とした円墳3基が調査されています。
その他に集落遺跡では平和の森公園北遺跡・神明小学校校庭遺跡・向田遺跡が発見されています。
大化の改新(645年)により、今の埼玉県と東京都・川崎市・横浜市は武蔵国とよばれるようになりました。
その中で中野は多摩郡海田郷(一部が小島郷)に属していたといわれています。
国府(都庁にあたる)は府中市に置かれ、それまでなかった税、租庸調を取り立てる他、国の行政の中心になりました。
そして税収入をあげるため、百万町歩開墾計画など荒地の開拓を進めました。
鎌倉~室町時代になると、金石文史料として板碑が区内各地から発見されており、
その分布から、神田川・桃園川・妙正寺川の流域に郷村が存在したことが明らかにされています。
また、文献史料としては「熊野那智大社米良文書」の中の貞治元年(1362年)の古文書に
はじめて「中野郷」という名が登場しており、のちに中野村の基礎ともなる郷村が成立していたことがわかります。
当時、この地域を治めていたと思われる氏族に、
秩父平氏の一つ江戸氏の庶流である中野氏が「米良文書」に登場しますが、
他の史料には記載されたものがなく、事跡が明らかではありません。
むしろ、石神井城、練馬城に本拠を置いた同じ秩父平氏の流れをくむ豊島氏の支配下に入っていたと思われます。
室町時代の末ごろ、関東管領をめぐる上杉氏の内部争いが激しくなり、ついに武力衝突となりました。
そして、扇谷上杉氏側の太田道灌と山内上杉氏についた豊島氏が
文明9年(1477年)区内江古田で合戦を繰り広げたのが江古田原沼袋合戦です。
この結果、豊島氏は滅び、この地域の支配は太田道灌に移りましたが、
道灌の増長を恐れた主家扇谷上杉氏によって謀殺されてしまいます。
やがて、これらの混乱に乗じて、伊豆から勢力を伸ばしてきた後北条氏によって
関東一円は支配されるようになりました。堀江兵部が越前から従者18名を連れて、
中野郷にやってきた15世紀後半~16世紀前半は、この混乱の時期にあたっています。
この頃、堀江氏は城山(中野一丁目)に居館を構え、開発を推し進め、
中野・杉並一帯の土豪としてこの地を治めていましたが、
戦国時代末期には後北条氏の下に小代官として任命されていました。
このことから、武力的な性格よりも行政官的役割をもった一族といえます。